時間を使う

時間に使われていないか?

朝だからコーヒーを飲もう。

夜だから飲みに行こう。

んんんんんんんん。

何が言いたいって、時間は使ってなんぼじゃねって思うってこと。

例えば友達と駅で10時に待ち合わせをするとして、自分はちょうど10時に着いたけど、友達はまだ来ていない。

この時どうするか。

これは偏見かもしれないけど、この時「おせーなー」って言ってイライラする人は時間に使われている人。

ぼーっとしているのは時間にとらわれてないっていうか、時間を意識してない人。

友達が来るまで近くの本屋で暇をつぶす人は、時間を使っている人。

うん、偏見やで。

じかんを使うってなかなかむずいよね。何がむずいんやろ?

なんかスマホを使うとかお金を使うとかそんなんより、難しく感じる。物体として目に見えないからかな。勝手に進むものだからかな。でも時間が過ぎるのが遅く感じることもあれば、早く感じることもある。時間てなんや。時間を意識するとやることをめいかくにできない。やることを明確にすると、

何か移転根やろ。

 

おわり。

 

 

The Psychology Of Money

何らかの物事に楽観的になればおおよそうまくいくことが多いらしい。『the psychology of money』という本の一部で紹介されていた。悲観論の対になるのが楽観論である。筆者が考える楽観論は、「すべてうまくいく」というものではなく、「たとえ途中で挫折したとしても、長い目で見ればうまくいく可能性が大きいのだから、その可能性を信じる」というものだ。

私は思った。「楽観論=まぁ何とかなるっしょでもいいやん」と。"すべて"というところが慢心につながる感じがあるのかな。まぁ、すべてってなんやねんって話だし、そのあいまいなものがうまくいくって考えてるんやったら、意味わからんもんね。慢心なんや。んー。可能性を信じるっていうのが肝な気はするなー。

ぼやき 1

自分にわがままになってみる。最近自分を押さえつける、頭で考えすぎるというか良い悪いの判断基準で行動することが多くなっているように感じている。なぜだろう?おそらく、「自分の中にあるものを曖昧にしている」 + 「周りのことに対しては敏感になっている」。つまり、自分の中の曖昧な感情を本やネット、世間の基準ではっきりさせようとしている。その方が頭にとっては理解しやすいから。ただそうすると何か問題が生じる気もするんだよな。頭が心に強いる。つまり、んー。心って時間が経つと変化するものだ。その変化を頭で押さえつけるっていうことが起こってしまう気がする。これが問題なのか、何の問題があるのかわからない。わからん。そういう感覚が大事な気もする。わからんということが。言葉って便利やし、スマホも便利やし。だからこそ、言葉ってなんだっけ、スマホってなんだっけ? そういう問いかけが大事な気もする。ばかばかしい問だと感じるかもしれない。でも、学生時代誰もが問いに答えを出してきたはずだ。問題集、それは、頭の良し悪しに関わらず、点数の高低に関わらず。問いに向き合う時間が多ければ、良い成績が取れるじゃない?自分の身近に触れているもの、自分の何気ない行動に、問いかけてみる。?????

めっちゃ地味だけど、そういう地味なことを続けることが自分を劇的に変えることだってある。

考えはシンプルに。発想は自由に。

 

 

12月の目標

今年ももう12月。気づけば大学4回生。しかし、単位不足で卒論は書けず留年。来年、大学5回生。6年目に突入する可能性も十分にある。まあ私の辞書に"辞める"なんて言葉はないから、たとえ火の中、水の中、草の中、森の中、土の中…

就職が不利になろうとも、私は卒業はする。

私が単位をなかなか取れないのには高校時代に思い描いていたキャンパスライフと違いすぎたというのもあるが (正直に言うと何にも思い描いていなかった...) 一つ明らかな原因がある。それは、

YOFUKASHI (夜更かし)

だから、決めた。私は今月から夜更かしをやめます。これは私の辞書に"辞める"という言葉が追加されるということだ。 (只今午前2時)

とにかくやめる。そして来年は元気で健やかにお雑煮を食べる。おせちも準備するんだろうか。一か月後が楽しみだあ。